第 一 話

渋谷の地に、間借りの保育園、誕生

鳩の森保育園が誕生したのは1951年の3月26日。今から70年前のことです。その時代の代々木周辺がどんな様子だったのか、今の時代に生きるお父さんやお母さんには多分、想像がつかないことでしょうね。

戦争が終わったのが、1945年の8月15日。その年の3月10日の東京大空襲はよく知られていますが、代々木周辺は、それより少し後の5月25日の大空襲で大きな被害を受けました。あたり一面、焼け野原となったのです。それから5年を経たこの頃も、街の中は焼け跡がそのままというところもあって、復興はまだまだ。大人たちは、その日、その日を食いつないでいくのに精いっぱいでした。幼い子どもを家において働きに出る親の不安といったら、それはそれは言葉に尽くせないものであったと想像されます。

鳩の森保育園の初代園長となった井上信子は、その頃、1歳になる男の子のお母さんでした。「女性の自立」と「もう二度と戦争は起こさせない」という思いをもって戦後誕生した女性たちの集まり「婦人民主クラブ」に、彼女も「母」の思いをもって加わっていました。宮本百合子、羽仁節子、松岡洋子など、当時のそうそうたる女性たちが発起人となって立ち上がった女性団体です。

晩年の井上信子初代鳩の森保育園園長。

井上がその集まりに参加したある日のこと、ひとりのお母さんがやってきて、「子どもを安心して預けられるところが欲しい」と切なる思いを訴えたのだそうです。井上も子育ての真っただ中ですから、その気持ちが痛いほど解ります。前向きな井上は、ならば「保育園をつくろう」と、すぐに仲間と共に動き出します。

国電(現在のJR)代々木駅から千駄ヶ谷駅に向かう総武線の土手沿いに位置する印刷会社「あかつき印刷」の社屋の一角が、たまたま空いているという情報を得た井上は、さっそく住んでいた自分の家をたたんで、夫と幼い息子と共に、この印刷会社の空き社屋に移り住み、そこを保育園として開設してしまいました。

井上が仲間たちとともにあちこちに貼った手書きのポスターを見て初日に園を訪れたのは、なんと50名だったとのこと。保育園がどれほど切望されていたかがわかりますね。

開園間もない頃の鳩の森保育園の子どもたち。

この頃、東京のあちらにひとつ、こちらにひとつ‥‥、ちらほらと小さな青空保育が誕生していました。心ある人たちが、子どもたちが安心して過ごせる場を、なんとかつくろうとしていたのです。

そんな時代状況のなかで誕生したこの保育園です。うれしいことに、ここには屋根がある。部屋もある。雨が降っても大丈夫。間借りの保育園は子どもたちのすてきなお城になりました。ただ日々を生きていくのでさえ厳しい戦後のこの時代に、こんな大胆な行動で現実を切り開いていった初代園長井上信子。素敵な女性だったにちがいありません。

明治神宮で思い切り遊んでひと休み。おなかも満たしてのどかなひととき。

さて、こうして印刷会社の一隅に開園した保育園は、「鳩の森保育園」と名付けられました。名前の由来は定かではありませんが、近くには鳩森神社があり、子どもたちがやがて入学する鳩森小学校もあります。そうした地域の保育園という意味合いとともに、「鳩」が平和の象徴であり、子どもたちが生きる世界が平和でありますようにという願いも込めた、そんなネーミングであったのではないかと想像されます。

こうして「代々木鳩の会」前史がスタートしました。