第 三 話

電車と共に、保育園も一歩、また一歩

卒園児である昔のいたずら坊主が、微笑みながらそっと内緒の話を教えてくれました。「本当はいけないんだけどね、土手に上って線路のところに立ってね‥‥」。半世紀以上前の話です。土手の上を走る電車の本数も今とは違って、電車と電車の間隔はたっぷりあいていたのでしょうね。春には線路土手にたんぽぽの花が咲いていたことでしょう。のどかな春を楽しむ小さな「お山の大将」の姿が目に浮かびます。

戦後のことですから、印刷会社の社屋も保育園が間借りを始めた頃は、素朴な木造でした。そこは今では大きなビルが立ち並ぶ明治通りです。10分も歩けば新宿の繁華街です。そんな場所に、かつて子どもたちが小さな胸をときめかせるさまざまなドラマがあったなんて、想像できますか。

1956年の経済白書は「もはや戦後ではない」と記しています。そしてその数年後には、日本社会は高度経済成長の時代へと突き進んでいきました。そうです。戦後の日本社会も、この街も、駆け足で変貌していったのです。

1960年代に入り、大家さんである印刷会社は工場を拡張するため、園舎がある場所に5階建てのビルを建設することになりました。保育園は、その新しいビルの2階のフロアを貸してもらえることになりました。うれしい話です。こうして保育園の創立時の木造社屋は取り壊しとなり、保育園は新しいビルができるまで、庭の一角にお引越し。しばしの仮園舎住まいとなりました。

そして1962年、木造旧園舎の跡地に5階建てのビルが完成しました。新しいビル園舎の定員は65名。2歳未満児39名、2歳児7名、3歳以上児19名です。この数字、気が付きましたか。幼児よりも3歳未満児の方がはるかに多く、2歳未満児がとっても多いんです。都市部に共働きが増えてきたその中で、乳児保育がいかに切実な要求であったか、そして鳩の森保育園は、それに正面から向き合う保育園であったということがわかりますね。

それから2年後の1964年。鳩の森保育園の近所では東京オリンピックが華々しく開催されました。国立代々木競技場の上空。真っ青な空に飛行機が描く5色の雲の輪を、きっと当時の鳩の森保育園の子どもたちも線路土手の下から見上げ、にぎやかにこの光景を楽しんだことでしょう。

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さて、人々の暮らしぶりはというと、この時代、経済は貧しさからの右肩上がりです。1950年代に三種の神器といわれた電気洗濯機、冷蔵庫、掃除機に代わって、1960年代にはカラーテレビ、クーラー、車が新三種の神器と言われ、物質的な豊かさは頑張れば手が届きそうという感じになってきました。

とはいえ、保育園にはまだまだクーラーなど遠い存在です。1966年に渋谷区に交渉して、扇風機を3台入れてもらったことが記録されています。熱い夏、子どもたちがあせもをつくらずにすむように、少しでも気持ちよくお昼寝ができるように‥‥と、そんな思いを一生懸命訴えた親たち、保育者たちの姿が想像されます。おやつ代5円の補助が20円に増額されたこと、暖房費、予防注射代が予算化されたことも、この年、併せて保育園の記録に残されています。一歩、また一歩。こんんふうに子どもたちの環境がつくられていったんですね。

保育園のこの歩みの日々、土手の上の電車もずっと共にありました。こちらも本数が増えていきました。そして、子どもが土手に上ることも、いつしかなくなっていきました。