第 四 話

赤ちゃんを抱えて困っている人がいるから

「ポストの数ほど保育所を」。1960年代後半から70年代初頭、こんな声が、あちらからもこちらからも聞こえてきました。「ここに保育園があったらうれしいな」「もっと保育園が欲しい」。そんな願いのこもった言葉ですね。

高度経済成長の中で産業構造が変わり、家族の形が変わり、働く夫婦の保育問題が浮かび上がってきました。1964年の母親大会から始まった「ポストの数ほど保育所を」の声は、年を追うごとに大きくなり、親も保育者も地域の人も、さらには保育に関わる研究者までも巻き込んだ「保育運動」となって、その力が政策を押し上げる形で70年代初頭には公立保育園が次々と建設されていきました。働く親たちには、それはそれはうれしいことでした。でも、0歳児を受け入れる保育園はまだごくごく少数。育休などない時代ですから、多くの親は無認可園を利用しました。

0歳児保育がまだ少なかった当時のこと。電車で通ってきた人たちもいました。

鳩の森保育園は創立当初から乳児保育に取り組んできましたが、1957年に産休明け第1号の赤ちゃんを迎え入れています。そして1960年には2人目を迎え‥‥と、当時から親たちの現実と向き合い、その理論や環境を模索しつつ0歳児保育をつくってきた先進的な保育園であったことが分かります。1966年には、間借り保育園であるにもかかわらず、0歳児専用の保育室もつくったというのですから、その前向きぶりがよくわかります。

今でこそ、0歳児保育はどこの保育園でも普通に取り組んでいますが、当時はまだまだ0歳児保育について社会的理解も少なく、認可保育園で0歳児保育に取り組んでいる保育園は本当に少数でした。

それでも働く女性が増えていく中で次第に0歳児保育のニーズは高まり、1968年には0歳児指定保育制度というものができました。当時は0歳児でも子どもと保母の比率は6:1。しかし0歳児指定保育園では3:1となります(今ではすべての園が3:1になりましたが)。鳩の森保育園は、早速申請し、0歳児指定保育所となって、都内でも数少ない産休明けからの保育を担う保育園として活躍したのです。

先進性は、0歳児保育だけではありません。鳩の森保育園は、1973年には0歳児の視力障がい児を受け入れました。保護者の願いに応えるとともに、障がいの有無に関わらず、どの子もみんな一緒に育ってほしい‥‥と、そう願ってのことでしょう。初めてのことです。おそらく、ひとつひとつの経験を寄せ合い、議論しながら、手探りで取り組んでいったことでしょう。

離乳食タイム。保育者は大忙し。子どもたちはなぜか一緒の食事が楽しい。

世の中にはいろいろな人がいます。いろいろな子どもたちがいます。子どもたちは、学びあい、支え合い、力を寄せ合って生きていくのがうれしいから、互いにちゃんと伝えられるし、分かり合える。そんな姿を子どもたちから大人が学ぶこともしばしばです。これは今もかわりません。

おやっ、いい匂い。「もうすぐお昼だからね」。そんなやりとりが聞こえてくるよう。

子どもの現実、親の現実を見つめ、そこに向き合い取り組んできた保育は、手探りの連続であったと思います。でも、そうしてその時代の保育を構築し、時代を切り開いてきたのだと思います。またそれは、児童福祉法をひとつひとつ現実のものにしていく歩みでもあったのだと思います。